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非二元豚の逆襲

 よく言われる非二元の決まり文句のようなものに、
「悟りを得た人というような個人はいない、何故なら個人は存在しないから」、だとか、「覚醒を得ることができるのは今、ここ、だけ」であって、だから頑張って修行して俺もいつの日にか悟りを開くぞ、というような目的を持って頑張るなんてのはありえないとかも言われる。
 常識的な文章の解読では意味不明なことが多い。なにしろ、「私はいない」と宣言している人が大勢の前で腕を振り回して講演していたり、本を出版したりしているんだから、子供の教育にもよくないね。
 私はいない、という言明は、私は嘘をついている、という言明とどちらがよりたちが悪いだろうか。
 それでも、何とかして俺もいなくなってみたい、と期待する自分がいるのであるからなあ。
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「非二元」を疑う

 「非二元」を疑ってみたい。なんだか、非人間みたいだし。なにしろ人はいないというのが。(マレー語では人はオランというそうな)
 長年にわたり、スピ界というかスピ系のチョコットウオッチャーみたいにしてきたので、すくなくともこの界隈で非二元ブームみたいなものが盛り上がっていることは感じられます。
 
 そう、「非二元」はえらいのだ。いまは一番偉いみたいだ。
 引き寄せなんてのは、ちっぽけな現生利益目的の小人のおもちゃだぜ。前世ばなしだって輪廻だって、所詮は現状好転を目論むのに使う道具だてだろう。
 そこへ行くと非二元は違うぜ。
 何しろ私はいないっていうのが殺し文句だからな。得られるものは何もないっても言ってるしな。

 まあ、「悟り」。その現代西欧版みたいなところがあるのですが。「覚醒」などとも言いますな。
 「悟り」を開きたいなどとごく真面目に希望している人は何パーセントくらいいるんだろうか。今の日本だったら人口の0.5パーくらいはいるんかなあ。分からない。でも、非二元のブームに乗っかってる人たちが4,5万人くらいはおられるんじゃろうか。
 私もその一人であることは間違いないのですが。
 この世界には ツートップというか二人の天皇のようなラマナ・マハルシ師とニッサルガダッタ師という無謬性の虹に取り囲まれた神々しい存在があり。
 その下方にはアジャンシャンティだとか、トニー・パーソンズだとか、横綱クラスから大関、小結さらに前頭から平幕まで、もう数えきれないくらいの”先生”たちが鎬をけずっているのであります。
 日本においては、2010年くらいからか「ヒロ」さんと自称するかたが、その伝説的なブログ(塩人間の海底探検という副題がある)において、途方もない圧倒的な質量の啓蒙活動を始められたのです。その活動は小休止を経て現在も継続されております。日本の多くの非二元マニアは、私も含めて、この非二元の使徒ヒロさんのブログと、この間ヒロさん自身が翻訳出版されたかなりの数の欧米非二元先生たちの著作などの圧倒的な影響のもとにあったのでした。
 私が何か困っていることがあるとすれば、非二元が分かった訳でもないのに、何故か心のどこかで「非二元」の教えは正しいのだ、これが人生、世界、宇宙の謎に対する最終的な「解」であるに違いない、と思ってしまっていることにあります。何故そう思ってしまったのか、それは、やはり生まれてきた以上どこかにそのような最終的な正解があって欲しい、それを知りたい、という気持ちがあるからだと思います。
 そして、今のところこの非二元ちゃんが、どうもそうらしいという雰囲気を湛えている、というところでしょうか。さまざまなスピ系の情報群の最上位、王様であるようにみえてしまうので。

私はいない

 私はいない、ではなくて、私しかいない、というところから始めたい。少し永井先生風に。
 他の人間が本当に存在しているかどうかは疑わしい、としても私の存在は疑えない、という主張はどうだろうか。
 要するに私の存在がなければ、私の意識というか、私の意識野、その中に森羅万象が立ち現われているわけだから、その私の意識野が存在しなければ全ては無ということになろうか。
 そこで、私の意識野の存在を保証しているのは私だ、とは言えないのか。
 ?私の意識野と「私」との関係はどのようなものか?
 ?「私の意識野」そのものを本当のワンネスの私とするのが非二元的な考え方か?
 取りあえず、ここでは、私の存在がなければ世界もなく、私がなければすべては無であり、何の意味もないと考える。
 私がいない。
 私が生まれる前には世界はない。従って、歴史などというものは全て作り話のようなものか。それでいいのか?
 私は在るとして、私の意識野に立ち現われる森羅万象は、その存在すべては、私の知覚能力に依存しており、外部世界の物理的実在と思える万象は、その存在が疑われる。多くの哲学者はそのような認識論を建てているのではないか。
そこで、外部の万象はすべて幻想である、と主張してみてもいい。色々あるように見えるけんども、わしの経験以外のものはありゃあせんのよ、と。
 ただし、幻想によって実在が毀損されるとしたらどうか。
 肉体の実在、また物質の実在を保証しているものは、実際は肉体的苦痛の存在、その記憶、そしてそれへの恐れではないのだろうか。
 あなたは、幻想の金槌で指を思い切り叩くことができるか。
 さらに突き詰めれば、疾走してくる幻想の大型トラックの前に肉体を差し出すことができるか。

ッィゴイネルワイゼン

 一昨日であったか、鈴木清順のッィゴイネルワイゼンを初めて見て、けっこう痺れた。うーんまいったなあ。
 今日はこれから陽炎座を見る予定。有難い。

私は誰か?

 昨日、であったか、「私は誰か」でググってみた。有名なラマナ・マハルシ師の教えに関するものがやはりたくさん出てきたのでした。
 そのように問い続けるれば、覚醒に至る、らしい、というやつだが。ある人が、誰か?、ではなく、何か?と問うのがよかろう、という意見を述べていた。
 誰?というのは、複数いる既知の人間のうちのどの人であるか、というニュアンスがなくもないので、つまり、この設問の最終的な答えは、私というのは、人間であるとは限らないので、私は何か?と問うのが、より理にかなっている、らしいのであります。
 そう言えば、「僕ってなに」っていう小説が昔あったな。読んでないが。

 渡辺恒夫という人がいる。読売の渡邉 恒雄と紛らわしいが、このナベツネ氏は思いのほかいいやつだった。
 この人の「輪廻転生を考える」という講談社現代新書があった。私の書架のどこかから出てきたのですが。1996年の本だからそう古くもないが、買った時に通読したのかどうか。たぶん、少し読んでやめたのだと考えられる。
 というのは、この本は看板に一割(偽り)ありで、輪廻転生に関する本ではないのだから。驚くべきことに、これは永井均の考えと呼応する、やはり独特の独我論、独在論を提示している書物なのでありました。
 この本を買った頃の(1996年ころ)私といえば、輪廻好きだったのであって、それで輪廻の本買って、少し読んでみたら違うことが書いてあるようなので、放り出したというのが、真相だろう、と思う。
 20年以上を経て発掘?されたこの本を、Amazonに出すといくらになるかな、という感じでチェックしたのですが、ついでに、少し読んでみるか、と読み始めてややビックリ。
 20年前とは私の興味の在りどころが変わっていて、この本の内容が見事にツボにはまってしまった。有難いのかどうか。偏在転生観という奇怪なるアイデアを提示していて、愉快なのである。
 少し書きすぎたかなあ。疲れてきたので。
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